銀行の封筒収集  ~ライフワーク~

-三井住友銀行

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三井住友銀行

三井住友銀行本店:Author:Fouton

 2001年4月1日に、財閥の枠を越えて、住友グループの住友銀行と、三井グループのさくら銀行が直接に合併して三井住友銀行が発足した(英名:Sumitomo Mitsui Banking Corporation、略称:SMBC)。合併後の2002年12月2日に金融持株会社三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)を新たに千代田区有楽町1丁目に設立・上場した。
 コーポレートカラーは若草色で、ロゴマークデザインは、香港のグラフィックデザイナーである陳幼堅(アラン・チャン)である。
 保有していた約2兆円の資産の含み益を帳簿上に現実化させ、旧住友銀行が保有する有価証券の含み損、約8,000億円を一掃させる為の手段として、旧太平洋銀行の承継銀行として旧さくら銀行が設立したわかしお銀行をSMFGの完全子会社化した上で、2003年3月17日、わかしお銀行に対して三井住友銀行が逆さ合併し、わかしお銀行が三井住友銀行へ商号変更した。
 2006年10月20日、住友銀行及びさくら銀行に対して注入されていた公的資金1兆5010億円を三井住友フィナンシャルグループとして完済した。
 急速な合併の過程で4か所に分かれていた本店営業部を、2010年10月18日に、三井不動産のオフィスビルである三井住友銀行本店ビルディングを全フロア借り上げる形で集約した。
 <参考 海外支店>

クアラルンプルのビスタタワー三井住友銀行マレーシア公開会社本店の表示:Author:Fouton
ビスタタワー51階に入る三井住友銀行マレーシア公開会社本店ファサード:Author:Fouton

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わかしお銀行(消滅)

旧わかしお銀行本店:Author:Rutksoly-jof

 1996年6月6日、同年3月に経営破綻していた第二地銀の太平洋銀行の支援をしていたさくら銀行が受け皿銀行として子会社のわかしお銀行を設立。2001年4月1日、さくら銀行と住友銀行の合併により三井住友銀行の子会社になった。合併直前に三井住友フィナンシャルグループの子会社とした後、2003年3月17日、バブル崩壊で含み損のあった三井住友銀行を吸収合併し、含み益のあったわかしお銀行を存続会社として、都市銀行となり三井住友銀行に名称変更した。

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太平洋銀行(消滅)

相互無尽本店:PD

 1911年11月7日、相互貯金株式会社として東京に設立。1917年1月11日、相互無尽株式会社と改称、本社は神田神保町1-21-1。大日本無尽への統合にも加わらず独立を守った。1951年10月20日、第一相互銀行と改称。経営危機を迎え、大日本無尽から相互銀行に転換した日本相互銀行の支援を受ける。しかし、再建後は富士銀行に接近して、日本相互銀行による救済合併を免れた。
 バブル経済では、不動産業やいわゆる地上げ業者への過剰融資を展開し、不良債権として経営を圧迫することになった。1989年、こうした乱脈経営はついに行き詰まり、太陽神戸銀行(現:三井住友銀行)ほか都銀数行による管理体制に入る。同年10月1日、第一相互銀行は、第二地銀に転換し、太平洋銀行となるもバブル崩壊による経営危機で1996年3月、遂に破綻した。破綻後の、1996年6月6日、さくら銀行(現:三井住友銀行)が100%出資子会社してわかしお銀行を設立し、預金保険機構より1,170億円もの金銭贈与が行われた。1996年9月17日、わかしお銀行に営業譲渡した。
 その後、わかしお銀行は2003年3月に三井住友銀行と「逆さ合併」した。このことにより、奇しくも旧大日本無尽の流れ(日本相互銀行→太陽銀行→太陽神戸銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行→三井住友銀行)と、日本無尽に参加しなかった相互無尽の流れが合流することとなった。
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さくら銀行(消滅)

さくら銀行本店:Awayanode

 1948年10月1日、旧帝国銀行を第一銀行と分割して帝国銀行が発足。1954年1月1日、三井銀行に改称した。1968年4月1日、東都銀行を合併するなどしたが、取引先の資金需要に対して応え得るための規模拡大ができず、最終的に1990年4月1日、太陽神戸銀行と合併することとなり、都銀上位行の位置づけとなった。合併から2年が経過した1992年4月1日、さくら銀行に改称し、旧帝国銀行の行章であった「さくら」が行名として復活した。1998年4月13日、破綻した田辺信用組合の事業を譲受した。

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田辺信用組合(消滅)

 1953年4月11日、田辺信用組合として設立。1998年4月13日、さくら銀行に事業譲渡した。
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太陽神戸三井銀行(消滅)

 1954年1月1日、帝国銀行分割新発足によって規模が縮小した三井銀行は、高度成長期において個人客の預金獲得に出遅れたことから、三井財閥系銀行でありながらグループ各社はじめ取引先主要産業の資金需要に十分応え得る規模的拡大を果たせず、中位行として甘んじていた。そこで、中位行ながら店舗数の多い太陽神戸銀行と合併することで業容拡大を目指した。1990年4月1日、太陽神戸銀行を吸収合併し、太陽神戸三井銀行が誕生した。行章である、旧帝国銀行の桜は引続き使用された。規模の面では富士銀行、三和銀行などの都銀上位行に匹敵するものとなり、財閥系都銀としての実力を発揮することが期待された。合併から2年が過ぎた1992年4月1日、新行名が定着したことにより「さくら銀行」に改称した。
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太陽神戸銀行(消滅)

旧太陽神戸銀行本店であった、さくら銀行神戸営業部:Author:Rutksdy-jof

<太陽銀行>
 1940年12月23日、川崎財閥の相生無尽を中心に東京市内の無尽会社5社が合併し、大日本無尽を設立、同月27日より開業。その後、政府の勧めにより相互無尽1社を除く東京府内の無尽会社を統合。終戦までに神奈川県、埼玉県、山梨県および長野県下の無尽会社を統合。1948年4月1日、日本無尽と改称した。
 1951年10月1日、相互銀行法により相互銀行に転換し日本相互銀行と改称。この時点で相銀界のリーディングカンパニーとなり都市銀行並みの規模になっていた、社長には大蔵次官経験の河野が就任した。ときわ相互銀行や第一相互銀行が経営危機に陥った際には、率先してこれを支援した。
 その後、太陽生命保険と提携して業績を拡大。高度経済成長期において当初は中小企業であった取引先と共に急成長し、その一方で相銀特有の零細融資である相互掛金の取扱高は減少する事態となっていった。
 1968年12月1日、普通銀行に転換し、太陽銀行と改称。都市銀行の一角に加わった。
 この頃、金融再編の流れが起こりつつあり、1968年の三井銀行と東都銀行の合併、1969年の第一銀行と三菱銀行の合併発表(のちに破談)、それに続く第一銀行と日本勧業銀行の合併に神戸銀行が加わる案もあった。この合併では結局、神戸銀行が離脱し、1971年、第一勧業銀行が発足した。これらの流れのなかで神戸銀行と太陽銀行は、都市銀行下位になっていた。
<合併後>
 1973年10月1日、かつて大蔵省で先輩後輩の仲であった河野と石野とのトップ会談により神戸銀行を存続銀行とし、太陽銀行と合併し太陽神戸銀行となった。行章は、赤い丸で太陽を表し、中の白い部分は神戸の『K』をシンボライズするとともに、それを∞型にすることで「港町・神戸の無限なる発展」を表現した。
 合併に際し、太陽銀行はリテールと関東地方、神戸銀行は大企業、国際取引と関西地方に強みがあり相互補完できるとの期待もあった。しかしながら水と油のように異なっていた両行でもあり、合併がトップで決まったこと、合併発表から合併までが短期間であったことなどで合併後も長く相容れぬ色彩が続くことになった
 1990年4月1日、存続銀行を三井銀行として合併し、太陽神戸三井銀行となった。
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神戸銀行(消滅)

 廣田内閣における馬場蔵相が勧めた一県一行主義により、1936年12月12日、兵庫県内に本店のある41行のうち、資本金、預金高が大きく堅実な経営を行っていた神戸岡崎、西宮、灘商業、姫路、高砂、五十六、三十八(姫路支店の業務継承)の7行が合併し、㈱神戸銀行が設立され、同月14日に開業した。
 神戸銀行の中核をなしたのは、1917年5月8日に岡崎藤吉が開業した神戸岡崎銀行であった。同行を中心とする岡崎財閥は岡崎汽船や神戸海上運送保険(同和火災海上保険を経て後のあいおいニッセイ同和損害保険)等全国的な事業展開をしていたため、合併成立後の神戸銀行も都市銀行とみなされた。したがって東京、名古屋、大阪にも数店舗が存在したが、店舗網の大半は兵庫県下に在った。
 戦時統合で、1942年6月20日、第百三十七銀行を丹和銀行と分割買収、1945年3月27日、兵和銀行、福本銀行、全但銀行、播州銀行を合併、同年4月21日、恵美酒銀行及び神戸湊西銀行を買収、同年5月25日、神戸貯蓄銀行を合併、同年7月16日、神戸信託を合併した。
 1956年、但馬地区の大半の店舗を香住銀行(後の但馬銀行)に営業譲渡した。1970年4月1日、信託業務を東洋信託銀行に譲渡した。頭取は大蔵次官経験の石野であった。
 高度経済成長時には、神戸に本社のあった海運、鉄鋼、造船業の本社が次々と東京や大阪に移転したため、本社移転先に支店を開設した。しかしながら、当時の大蔵省は支店の開設を厳格に規制したため、兵庫県下の支店を閉めて、その代償として開店した。
 1973年10月1日、かつて大蔵省で先輩後輩の仲であった河野と石野とのトップ会談により神戸銀行を存続銀行とし、太陽銀行と合併し太陽神戸銀行となった。
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神戸貯蓄銀行(消滅)

 1921年12月26日、淡州貯蓄銀行が営業を開始した。
 1938年8月15日、淡州貯蓄銀行が神戸貯蓄銀行に改称した。1945年5月25日、神戸銀行に合併した。
 貯蓄銀行の詳細については、りそな銀行>協和銀行>安田貯蓄銀行を参照して下さい。
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三井銀行(消滅)

駿河町旧三井両替店と三井越後屋呉服店:Author:PD

<両替商としての出発と明治維新>
 1683年、三井高利は江戸本町で盛業していた三井越後屋呉服店(のちの三越伊勢丹)を駿河町へ移転。その際に補助機関として三井両替店を創業した。1686年、京都両替店を開設。1691年、幕府の大阪御金蔵銀御為替御用を務め、江戸、京都、大阪の三都で営業基盤を整えていった。さらに、王政復古の発令を経て維新政府の為替方となった三井組は、最初に大蔵省の前身となる金穀出納所御用達を受諾し、御為替方三井組を称するようになった。三井組は政府の殖産資金創出策に合わせて活躍し、通商・為替会社を東京・大阪・横浜・京都・大津・神戸・新潟・敦賀に設け、重要な地位に就いた。

<三井銀行の誕生>

駿河町旧三井銀行本店:Author:PD

 1871年7月、政府は当時大量の政府紙幣の整理方法として英国流の中央銀行として三井組を新貨幣為換方に任命する予定であった。しかし、当時の総理伊藤博文は米国流の国立銀行制度を採用し、三井及び小野組合同による第一国立銀行を設立した。その後、1876年の銀行条例では、銀行と称することを国立銀行以外に禁止していたが、第一・第二・第四・第五の四行のみに留まっていたことなどから改正され、1876年7月1日、最初の私立銀行である三井銀行が駿河町三井洋館に誕生した。その後、地租の納税窓口を担当し、地方都市にも店舗展開した。
 ちなみに、「BANK」の訳語は、当時の渋沢大蔵大臣は「金行」と提案したが、三井銀行を興した三野村は交換には銀も含むと答え「銀行」となった経緯がある。

<日本銀行の設立>
 1882年10月10日、国立銀行の乱立による不換紙幣整理とインフレの収束の政策のなか、日本銀行が開業し、国庫金取引を日銀に移し、これまで三井銀行が行ってきた為替方は全廃された。このため、三井は明治政府の支配を脱し、政財界への無担保融資などの不良貸出金の回収、業務組織の整備、有能な人材登用、工業の育成に着手した。また、1893年、政府貸付業務の制約と兼業の禁止銀行条例が施行された。同年7月1日には三井同族会は合名会社に改組した。

<日清戦争と日露戦争>
 日清戦争が勝利に終わり、日本が3億6400万円にも上る大量の賠償金を英ポンドによって受け取った事は、日本経済に重大な影響をもたらした。すなわち、1897年に金本位制を実施し、この時期には同年開業の日本勧業銀行、1900年には農工銀行、北海道拓殖銀行、1902年には日本興業銀行と、特殊銀行の設立が行われ、国立銀行の普通銀行への転換が進められるなど、貨幣・金融制度の整備が著しい進展を見せた。しかし急激な膨張による反動は凄まじく、工業育成主義から各製糸所の・紡績所の売却、芝浦製作所の分離、有価証券・地所の処分などが行われ、徹底した採算主義にもとづく商業銀行への転換が行われた。
 日露戦争後の興銀の活躍による外資導入、南満州鉄道株式会社などが刺激材料となって、再び企業熱が勃興し、東株(東京証券取引所)は3倍もの値をつけ、経済は飛躍的な発展を遂げ、三井銀行は大きな力を蓄えた。海外銀行のロスチャイルドやモルガン等に習い、1909年11月1日に税制上不利で無限責任の合名会社を子会社の旧三井物産に吸収させ、新規の株式会社三井銀行に業務譲渡して開業した。当時力のあった5つの銀行は、三井銀行、第一銀行、三菱銀行、住友銀行、安田銀行の順で、貸出金・預金高における三井の額は実に三菱の2倍であった。

<外国為替とドル買い事件>
 三井銀行は、将来的に日本の外国に対する借金が多くなると予想し、1913年に外国為替業務に着手した。バークレイズ銀行との為替約定に引き続き、続々と引受信用と当座勘定契約を締結した。当初は三井物産のためであったが、王子製紙・鐘紡・富士紡のためにも同様の措置をとった。1915年になると外国為替取引高は3000万円に上り、1917年には上海支店を開設。本店以外の横浜・大阪・神戸などでも輸出手形の買入れ、送金為替の売渡を取扱うようになった。
 1931年イギリスが金本位(輸出)禁止を発表すると一気にドル買いの嵐となった。世界経済は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーが金本位を停止し、オランダも後を追って同調する気配となった。金解禁によるデフレ効果の苦しみで強まった再禁止が避けられないという見方が強まり、日本も高橋是清蔵相の手で再禁止が行われた。その数ヶ月前には満州事変が勃発しており、横浜正金銀行が売り応じたドル為替の総額は7億6000万円にのぼった。このうち三井がイギリス資金凍結回避のために買い応じたドル為替4,324万円は、「ドル買い事件」として朝日新聞に記載され、国賊として批判を浴びた。イギリスが金本位を離脱すると同時にポンド圏もこれにならったので、金本位維持国はアメリカと日本などきわめて少数になった。次いで、1930年の右翼団体愛国社員による濱口首相の暗殺事件、1932年の井上準之助、団琢磨暗殺事件、五・一五事件と、血なまぐさい事件が相次いで起きた。一方、輸出振興と失業救済を目的とする経済圏拡大と理想国家の建設を目指して満州進出が始まり、日本を財政インフレの戦時経済へと導いていった。

帝国銀行本店:Author:PD

<日中戦争と帝国銀行>
 1937年、日中戦争の勃発により戦時経済体制に突入し、金融界も国策に則ったものになった。1938年、財閥銀行ではない第一銀行に、日銀総裁を通じて合併を打診。昭和銀行と第百銀行の合併が持ち上がったことが契機となり軌道に乗り始めた。同じ日に三菱銀行と第百銀行の合併発表が行われ、更に3日後には安田銀行と日本昼夜銀行の合併が発表された。1940年には第一と関係が深かった十五銀行との合併が発表された。1941年10月1日、西脇銀行を買収した。
 1943年4月1日最も古い国立銀行である第一銀行と合併し、帝国銀行を新立した。同年11月15日、三池銀行を筑邦銀行及び肥後銀行とともに分割買収した。1944年8月1日、最大の資本金を持つ十五銀行を合併した。日本最大級の銀行となった帝国銀行であったが、旧三行での企業文化の違いや旧三井・旧第一の人事面での対立、GHQの財閥系銀行分割を予想して、1948年9月29日に第一銀行と新設法人の帝国銀行に再分割され、業容は半減した。

旧三井銀行本店:Author:PD

<再び三井銀行へ>
 1954年1月1日に帝国銀行は三井銀行へと改称して旧財閥名を復活させ、1968年4月1日には10年余り密接な関係にあった東都銀行を合併した(逆さ合併)。また、同年にはクレジットカード会社JCBに対して資本参加を行い、従来の出資行である三和銀行や同時に参加した協和・大和・神戸の各銀行と共に本格的なクレジットカード業務の推進に乗出した。しかし出店規制や個人客の預金獲得に出遅れたことから、三井銀行は中位行のまま高度経済成長期を推移した。このため再結集した三井グループの金庫番としての機能を十分果たせない時期が続き、一時は三井物産のメインバンクを富士銀行に奪われた。しかしながら、戦前からの企業の支援・育成の伝統は受け継がれ、トヨタ自動車・ソニー・イトーヨーカドー・相模鉄道・ANAなどは三井銀行の支援や、三井銀行出身者の助言によって成長した。後年ソニーの社外取締役に旧三井銀行出身の岡田明重が就任したり、トヨタが旧さくら銀行の増資に協力したりしたのはそのためである。また、証券代行業務に強みを持っていた。
 <参考 旧三井家下鴨別邸>
 旧三井家下鴨別邸は、三井家十一家の共有の別邸として、総領家三井北家第十代の三井八郎右衛門高棟(たかみね)により、1880年に木屋町三条上ルに建築されていた。1909年、京都市左京区の下鴨神社の南に、三井家の祖霊社である顕名霊社(あきなれいしゃ)が遷座された。1925年、その参拝の際の休憩所とするため、この地に移築された。三階望楼からは、東山の大文字と法の字の送り火を眺めることができ、座敷襖の引手は、両替商を意味する分銅の意匠を取り入れている。

分銅の意匠を取り入れた座敷襖の引手:Author:Fouton
旧三井家下鴨別邸:Author:Fouton

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住友銀行(消滅)

住友銀行本店:Author:日本建築協会『建築と社会』

<住友の起源>
 1662年、泉屋(住友家の屋号)平兵衛友貞が両替商を大阪と江戸で手掛けたことがその起源である。同店は1684年、為替不達事件を起こし、江戸両替店は1869年まで一旦閉鎖となる。1875年、並合業(貸し倉庫預かり物品の金融事業)として再開し、業容を拡大していった。

<住友銀行の開業と第一次世界大戦>
 1890年、銀行条令が発布されたのを機に、1895年11月1日住友本店銀行部として、大阪市中之島に住友吉左衛門の個人経営による住友銀行が開業した。1899年5月22日、泉屋銀行を買収。1912年4月1日、株式会社住友銀行として改組し開業した。同年10月20日、株式会社第六十一銀行を買収。1919年末には、第一銀行、三井銀行に次いで、全国第3位の規模となった。
 一方、第一次世界大戦勃発に伴う輸出の急増、在外邦人の内地仕送りの増加から、海外拠点の開設の必要性が高まった。1916年、市中銀行のトップを切って、サンフランシスコ支店およびハワイ住友銀行を開設、さらに同年に上海とボンベイ、1917年に漢口、1918年にシアトル、ロンドン、ニューヨークに拠点を開設、普通銀行の海外進出の先駆けとなった。さらに、1924年にはロサンゼルス支店、1925年には加州住友銀行を設立した。

<昭和金融恐慌と財閥系への預金集中>
 その後、第一次世界大戦後の復興景気の反動から、1920年から1922年に金融不安が日本経済を襲い、預金、貸出金とも減少が続いた。1924年5月1日、田中興業銀行を買収、1925年5月31日、若松商業銀行を買収した。1927年、片岡蔵相の失言から、昭和金融恐慌が起こり多くの銀行が破綻するなか、預金は信用度の高い三井や住友などの財閥系銀行に急速に集中した。1928年3月31日には久留米銀行を買収し、1929年末には普通銀行中首位を占めた。また、1930年11月24日には、浅田銀行を金原銀行と分割買収。1931年11月17日和歌山倉庫銀行を買収し、業容は順調に拡大していった。

<第二次世界大戦と財閥解体>
 1941年9月20日、佐賀百六銀行を買収。1943年12月25日、三州平和銀行を買収、同月27日、豊前銀行を大分合同銀行と分割買収。1945年7月1日、池田実業銀行及び阪南銀行を買収した。終戦直後の日本では、年率200%以上のインフレーションが進行したため、政府は1946年2月、金融緊急措置令、日本銀行券預入令、臨時財産調査令等を公布し、預金封鎖と新円への切り替えを実施した。このため、換物思想が優先し、金融機関の経営は困難を極めた。そうした混乱の中、1945年11月には、GHQ(連合国軍総司令部)による財閥解体方針が出され解散、1948年10月1日には行名を大阪銀行と改めたうえで再出発した。
 経済が安定から復興へと進む中で、預貸金の拡充、店舗網の整備、外国業務再開など業務の立て直しを進めた。1952年4月のサンフランシスコ平和条約発効に伴い、12月1日に行名を住友銀行に復帰し、堅実経営、精鋭主義を掲げ業績発展に取り組んでいった。

<トヨタ自動車と名古屋圏経済>
 この時代、特筆すべき事象として、トヨタ自動車工業との関係がある。戦後の1950年、ドッジ・ラインに伴うデフレにより、トヨタ自動車は経営危機に陥った。当時の社長豊田喜一郎は辞任し、帝国銀行(後の三井銀行)・東海銀行を中心とする銀行団の緊急融資の条件として、販売強化のためにトヨタ自動車販売株式会社が設立される再建策が決定された。しかし、当時、帝銀・東海と共に主力銀行の一つであった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋には貸せても、鍛冶屋には貸せない」とにべもなく峻拒、取引銀行25行の中で三菱とともに、貸出金を回収し取引を打ち切った。その後、朝鮮戦争勃発によるトラック特需をきっかけに、トヨタ自動車は順調に経営再建を果たし日本を代表する製造業となった。帝国銀行の支援をきっかけに、トヨタは三井グループ入りすることになった。反面、取引を解消した住友銀行に対しては、石田退三や歴代のトヨタ社長は取引再開を許さず、加えて名古屋を中心とする東海経済界では「住銀はいざとなったら頼りにならない」との風評が広がり、同地で苦戦する遠因となった。なお、トヨタの経営危機から15年後の1965年、経営危機に瀕していたプリンス自動車に対して、同社のメインバンクであった住友銀行は専務をプリンス自動車社長に送り、トヨタへの救済合併と取引再開を画策した。しかし、当時のトヨタ会長石田退三は「鍛冶屋の私どもでは不都合でしょうから」とこれを拒絶した。結局、プリンス自動車は日産自動車に吸収された。トヨタ自動車と住友銀行との取引再開が本格化するのは、三井銀行の後身であるさくら銀行との合併により三井住友銀行が発足してからであった。

<高度経済成長の波>
 1952年、後に法皇と呼ばれる堀田庄三が頭取に就任、「堅実経営」「合理的精神」「凡百の議論をやめ商道に徹せよ」の三点を掲げ、冷厳ともいえる合理主義的経営を行った。この時代、日本経済は高度経済成長の波に乗り、住友銀行は増加する資金需要に応えるために、新種預金を相次いで創設するなど預金吸収に力を注ぐ一方、経営効率の向上に努め、職員1人当たりの預金額は抜きんでて高いものとなった。また、貸出面でも同行独白のダブル・チェックシステムを活用し、優良企業との取引を拡充していくと同時に、銀行の大衆化に対応して、1960年11月には自動車購入ローンを開始、日本における消費者金融の先鞭をつけた。堀田頭取時代、住友銀行は、取引先企業の経営が傾き始めると容赦なく融資を引き上げ、「がめつい」「逃げ足が速い」と批判された。後にイトマン事件等の不祥事が続発するような、利益第一主義の遠因となったという指摘もある。しかし入行直後に昭和金融恐慌を体験し、相続く銀行の破綻をつぶさに見つめてきた堀田は、「預金者のお金を厳格に運用するのは銀行の責務」とたじろがなかった。融資においては事業の将来性と経営者の能力を厳密に評価した上で行い、松下電器産業、三洋電機、武田薬品工業、ブリヂストン、マツダ、アサヒビール、鹿島、コマツなどの、後に日本を代表する企業を育てていった。
 また、1965年4月1日には大阪の戦後地銀であった河内銀行を吸収合併し、資金量で富士銀行に次ぐ2位に躍進、収益では全国の銀行でトップに立った。事務合理化の面では、同行は1967年4月に都市銀行初の総合オンラインシステムを稼働させ、1969年12月に日本初の現金自動支払機を設置、事務処理の効率化とサービスの向上を実現させた。1967年12月には株式会社住友クレジットサービス(現・三井住友カード。当時は外為法の規制により国内専用であったものの、翌年日本で最初VISAカードを発行)、1968年9月には住友銀行を中心とする住友グループのリース会社として総合リース株式会社」(後の住銀リース、現・三井住友ファイナンス&リース)、1969年には日本情報サービス株式会社(現・日本総合研究所)を設立した。
 1973年秋のオイルショックをきっかけに引き起こされた内外経済の不況の中で、総合商社安宅産業の破綻が露呈された。安宅産業は伊藤忠商事との合併の道を選び、内外経済の混乱は避けられたが、16行の銀行団の償却債権額は総額2,000億円にのぽり、住友銀行もそのうち半分以上を負担、1977年9月末の決算で全額償却を余儀なくされた。

<磯田の時代>
 1977年、のちに『住友銀行中興の祖』と呼ばれる、磯田一郎が頭取に就任(1983年~1990年まで会長)。1978年、系列である関西相互銀行の吸収合併計画が進められたが、従業員・取引先の強固な反対運動が沸き起こり頓挫した。しかしながら、磯田は、前述の安宅産業吸収合併で手腕を発揮したほか、東洋工業(現マツダ)・アサヒビールなどの企業再建を手がけた。また、1979年7月に導入した総本部制・総本部長の青天井の決裁権限等に代表される機構改革は、迅速な意思決定を可能にした。住友銀行を近畿の銀行から全国展開する上位行としての地位を築き、頭取就任から3年の1980年9月末の決算において都市銀行で収益トップの座となった。1986年10月1日には平和相互銀行を合併することで、首都圏における店舗を充実させ、全国で300店におよぶネットワークを完成、預金量も富士銀行を逆転し、合併によって首位に立った第一勧業銀行に次ぐ都銀2位に躍進したが、救済合併した平和相銀の不良債権により、再び収益力の都銀1位の座を失うことになった。磯田は「向こう傷を恐れるな」と大号令を発し、わずか2年後の1988年に都銀1位を奪回した。こうした、磯田のバブル経済下における積極融資方針に、当時の頭取小松康は懐疑的であった。そもそも、小松は平和相互銀行の吸収合併も反対であったが、このことが磯田の逆鱗に触れ、2期目の任期満了を2ヶ月残し1987年10月に頭取を解任された。これ以降、住友銀行の積極融資に歯止めが利かなくなり、さらに富士銀行との間に展開されたFS戦争と呼ばれる融資競争は、バブル崩壊により膨大な不良債権を生み出すことになった。なお、この頃、進展する国際化や金融自由化に対応するため、各国主要都市への拠点開設や、1984年、スイスの名門プライベート・バンキング・ゴッタルド銀行の買収、1986年、アメリカのゴールドマン・サックスへの出資、カード・リース等関連金融子会社の設立など、積極的な取り組みをみせた。

<バブル崩壊と闇社会との関係>
 年号が平成に変わる1989年ころから、過剰な不動産・証券投資の反動が生じるなどのいわゆるバブル崩壊の影響が、日本経済に現れ始めた。住友銀行でも、1990年5月、日本経済新聞のスクープによりイトマン事件が報道される。住友銀行傘下のイトマン向け融資総額は1990年末には5,000億円を超えていたことが発覚した。事の起こりはイトマンが青山に東京本社を建てるための地上げが進まなかった際に、住友銀行名古屋支店が、イトマンに対し山口組の関係者である伊藤寿永光を仲介屋として紹介したことにあった。イトマンの幹部となった伊藤寿永光は、暴力団とのコネを使うことで地上げを次々と行い、その他の暴力団とのトラブルも収束させイトマンの不動産部門を担う筆頭常務にまでなった。住友銀行はイトマンに巨額の不正融資を次々に行い、地上げをさせ、形の上では日本一の収益を上げていた。その結果として1990年3月末のイトマンの不動産関連の借入金は1兆1800億円にも達し、バブル崩壊とともに大部分が不良債権となった。最後には不良債権の7000億円以上の金が行方不明となった。続く同年10月、横浜の住友銀行北青葉台支店長が、蛇の目ミシン恐喝事件で注目されていた仕手集団「光進」対する巨額融資の仲介を行い、出資法違反で逮捕された。相次ぐ不祥事の中、同年9月、大蔵省銀行局検査が4か月の長きにわたって開始され、同年10月、当時会長だった磯田は辞任に追い込まれた。
 バブル崩壊で発生した不良債権に対して、1995年3月期決算では8,000億円を超える償却処理を実施し、当時の金融界では異例の経常赤字決算となった。不良債権処理を優先させたもので、他の都銀に先駆けて収益力を回復させる目論見であったが、その後も五月雨式に不良債権処理が続くことになる。こうした過程で、闇社会との軋轢が徐々に表面化、1993年春から、住友グループ幹部宅を狙った襲撃事件が10件以上起き、住友銀行横浜駅前支店で銃弾が打ち込まれた。また1994年9月14日に住友銀行取締役名古屋支店長が射殺された。

<三井住友銀行の誕生>
 1998年10月28日、西南信用組合の事業を譲受。1999年10月、住友銀行はさくら銀行との合併を発表する。当時、さくら銀行は、不良債権処理に伴う株式含み益の大幅な減少や株価の低迷が続き大きな負債を抱え経営危機に陥っており、経営の抜本改革を模索していた。一方、住友銀行は、バブルや失われた10年でも発生した不良債権の処理問題や、財務体質は強いものの、企業・個人の顧客増が伸び悩み今後の収益の大幅な向上策を探っていた。また資産規模や収益で他を圧倒する東京三菱銀行との格差が大きく首都圏の顧客基盤は比較的弱いという悩みを抱えていた。こうした両者の思惑が、300年間にわたる財閥の垣根を超えた合併を実現させた。もっとも、当時の一般的な反応は、住友銀行によるさくら銀行の救済という捉え方であり、合併発表の記者会見では、さくら銀は経営的に弱い銀行と見られていた。2001年4月1日、住友銀行は、さくら銀行と合併し三井住友銀行となり、106年の歴史に幕を閉じた。

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平和相互銀行(消滅)

平和銀行本店であった三井住友銀行西新橋ビル:Author:東京ビル景 ショーケン氏

 小宮山英蔵が終戦直後の屑鉄売買で財を成し、殖産会社である東北林業を買収。1949年6月1 日、日本殖産株式会社に社名変更。1950年4月20日、大日本殖産株式会社を買収。同年5月1日、無尽免許を取得し、平和貯蓄殖産無尽株式会社へ商号変更。1951年10月20日、相互銀行法により株式会社平和相互銀行に商号変更した。
 午後7時まで(土曜日は3時まで)の窓口営業に加え、駅前から住宅地まで首都圏に店舗網を持ち、都市銀行各行と提携しATMではいずれの銀行のキャッシュカードでも使用可能とするなど利便性を重視した。このため最盛期には、店舗数100、資金量1兆1500億円の相互銀行業界第6位の大手となった。
 また、関連会社を次々と設立、買収した。その中には総武流山電鉄や太平洋クラブなどがあった。こうした関連会社等が経営不振であっても融資を続け、乱脈経営を行っていた。さらに英蔵の弟の重四郎が自民党の衆議院議員だった縁から、政治家、総会屋や右翼なども平和相銀との関係を持つようになり、「闇の紳士の貯金箱」とまで噂された。
 1954年10月、 東京住宅無尽株式会社を買収。1974年4月1日 福徳信用組合を合併した。
 経営陣の内紛とともに、1982年の不動産融資事件や1983年の馬毛島事件、1985年の金屏風事件などで数々の不正融資が行われ経営が悪化した。1985年8月、大蔵省の吉田銀行局長の指揮のもとに、5ヶ月間にわたる異例の長期検査が実施された。この検査で、融資額の半分の約5千億円が回収不能債権と判明した。この報道をきっかけに、信用不安がおこり1兆2000億円だった預金が8000億円まで減少。1985年12月、大蔵省OBの田代社長が就任し、事実上の大蔵省管理である決算承認銀行となった。
 1986年10月1日、首都圏に支店網のほしい住友銀行に吸収合併された。
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