銀行の封筒収集  ~ライフワーク~

-りそな銀行

-りそな銀行

りそな銀行

りそな銀行本店:Author:Fouton

 2001年12月12日、大和銀行は親密地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により大阪市中央区備後町2丁目に金融持株会社大和銀ホールディングスを設立し、各行はその傘下入りした。2002年3月1日、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を新設した大和銀信託銀行に分割した。続いて2002年3月には、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。2002年10月1日、大和銀ホールディングスは、りそなホールディングスに商号を変更。2003年3月3日には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を埼玉りそな銀行に会社分割し、残ったあさひ銀行は大和銀行と合併する形で、りそな銀行が誕生した。
 発足直後の2003年4月22日、合併前の決算を審査するため、新日本監査法人と共同監査を行っていた朝日監査法人(後の有限責任あずさ監査法人)が、繰延税金資産の取扱をめぐり同行の共同監査を辞退し、決算監査が大幅に遅延する異常事態となった。残った新日本監査法人は、5月に入り繰延税金資産組み入れの前提となる将来の収益性を疑問視し、りそな銀行の主張する繰延税金資産5年分を否定して、3年分の組み入れしか認めない方針を明らかにした。このため同行の自己資本比率は、国内基準の4%を大幅に下回る、2%台に転落する可能性が出た。そのため預金保険法に基づき、6月には1兆9660億円の公的資金が注入された。従来の優先株による無議決権資本注入に加え、額の巨額さや経営再建への影響力を勘案された結果、普通株での資本注入が行われたために、りそな銀行は事実上国有化された。
 2006年1月1日、奈良銀行を吸収合併。2007年1月、5,327億円の公的資金の返済を行った。リーマンショック直後も唯一、黒字計上した。2009年4月1日、りそな信託銀行を吸収合併し、再び唯一信託部門を持つ銀行となった。2010年3月、6期連続の黒字を計上した。

りそな銀行シンボルマークモニュメント:Author:Fouton

 「りそな」は、ラテン語の「Resona=共鳴する、響きわたる」から由来している。最も大切な顧客の声に耳を傾け、共鳴し、響き合いながら、揺るぎない絆を築いていこうという思いをネーミングに込めている。また、「りそな」を象徴するシンボルマークは、2つのRをモチーフとしており、「りそな(Resona)」と「地域(Regional)」が共鳴し合う様子を表現しており、本店前にもモニュメントがあり、封筒にもデザインされている。

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↓開設期間 2003.3.3-
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大和銀行(消滅)

旧大阪野村銀行本店:PD

<大阪野村銀行と野村證券>
 二代目野村徳七は、野村商店(後のコスモ証券)を開業し、小規模な両替店から証券業務に参入して、日露戦争、第一次世界大戦の好景気で財を成した。1918年8月1日、念願の商業銀行である株式会社大阪野村銀行を開業した。
 開業まもなく第一次世界大戦後の反動不況と関東大震災に遭遇したが、着実な経営姿勢の堅持により信用を高め、発展の基盤を固めた。その間、証券金融の活性化を目的とし、1920年9月29日、担保付社債信託業及び公社債専門の証券部門の設置を行って、次第に証券銀行色を強くした。また、1925年8月1日に安藤銀行、1926年11月1日に福陵銀行、1927年9月8日に森岡銀行を買収継承した。
 やがて、証券部門が急成長し、1925年12月には証券部を野村證券株式会社として分離した。
 現在の、りそな銀行本店、西入口前には、大阪野村銀行の柱が保存されている。

りそな銀行本店西入口に残る大阪野村銀行の柱:Authour:Fouton

<野村銀行への改称と合併による業容拡大>
 1926年になって、開業時から既にあった青森の野村銀行に対し商号変更を要求し、全くの別会社である野村銀行は12月9日に立五一銀行へ商号変更した。これにより1927年1月1日に野村銀行に改称し、野村財閥の中核としての商業銀行への道を歩む事となった。この年から深刻な昭和金融恐慌が進み、多くの名門銀行が姿を消す中で、1928年9月に藤田銀行、1929年5月11日に加島銀行の営業権を鴻池銀行と山口銀行とともに譲り受け、業容を拡大、十五大財閥の1つに発展していった。金融恐慌後の1929年には大阪府本金庫事務を受託した。
 金融恐慌を契機に急激に高まった銀行の合同整理の中で、1933年には大阪では他の有力3行の合同で三和銀行が発足したが、野村銀行自体は自主独立の路線を堅持した。1934年12月15日、富田林銀行を買収し、1935年2月4日、日比谷銀行を買収。1940年4月1日、大師銀行を買収し、1942年7月1日、摂津銀行を買収した。1944年8月28日、野村信託株式会社を合併して第1号の信託併営行となった。

旧大和銀行本店:Authour:Jo

<大和銀行の誕生>
 戦後の財閥解体で、野村財閥は1946年12月7日 に第2次指定を受け解散した。また野村銀行も、1948年10月1日、行名変更を余儀なくされ、大和銀行と名称変更した。変更名では、「大阪銀行」と改称し地元金融機関として生きる道を考えたが、住友銀行と競合した。このため第2案の「大和銀行」に落ち着くことになった。「大和」の由来は、財閥解体下における新体制での「大いなる和」と、野村財閥の商標である「山にト」(=やまと)を掛け合わせ、また「大和」の「大」は「大阪」をも意味した。

<ユニバーサル・バンキングへ>
 1949年11月、甲種外国為替銀行の認可を得、銀行・信託・外国為替を3本柱とする総合金融機関体制を実現した。
 1955年以降、大蔵省は信託分離を勧めたが、都市銀行の中で頑なに信託併営を維持した。このため、大蔵省から睨まれ、新規出店において認可を出し渋られ不利な扱いを受けたとされた。1962年4月には、適格退職年金制度が発足した際に、直ちに年金信託部を設置して取扱いを開始し、信託業界首位の座を守った。
 貿易と資本の自由化が進み、日本経済の国際化がすすむ中、1956年にニューヨーク、1958年にはロンドンと、国際金融の2大中心地に駐在員事務所を設置した。1988年にレイニア・インターナショナル銀行香港地区9店の営業権を譲り受け、当時、在香邦銀最大規模の10店舗を展開、また、1990年には、イギリス・ロイズ銀行のアメリカ拠点を買収し、こちらも、当時、在米邦銀最大規模の17店舗を有し、最盛期には大和銀行の純利益の3割を産み出した。
 合理化の面では、1972年8月、キャッシュディスペンサー1号機を設置した。1971年末には総資金量2兆円の大台を突破するに至った。
1991年には大阪の堺筋本町に新本店ビルが竣工した。封筒のキャラクターにはアランジアロンゾを起用し親しまれた。
 1993年9月には、顧客に利回り保証を行う「飛ばし」事件で経営危機に陥った系列会社のコスモ証券を救済するため、第三者割当増資を引き受け、証券子会社とした。この結果、大和銀行は、銀行・信託・証券・外国為替の一体経営を行うことになり、国内初の「ユニバーサル・バンキング」を実現した。この当時は都銀が証券会社を持つことはまだ認められていなかったが、出自であるコスモ証券の債務超過であったため例外的に認められた。
 1987年、関西地方に地盤のある企業40社が、「国際花と緑の博覧会」への参加を目的に集合、これが「大輪会」へと発展し、大和銀行はその中核銀行に収まった。

<バブルの崩壊>
 バブル経済の崩壊は、脆弱な経営基盤である大和銀行を直撃した。次第に他の都市銀行とは志向を異にして、地元・大阪に密着した地域密着路線を推進するようになっていった。
 凋落が決定的となったのが、1995年に発覚した、「大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件」であった。ニューヨーク支店において、米国債取引による総額約11億ドルの巨額損失が発生。当時の大蔵省へ損失報告を行っていたが、米法に反してFRBへの報告を怠り、巨額の罰金と事実上の米国からの撤退を強いられた。国際金融市場の中心であるニューヨークからの追放で、国際金融市場へのアクセスを失い、都銀第3位の海外拠点は、大和プルダニア銀行(後のりそなプルダニア銀行)を除く、すべての国際業務から撤退した。純利益の3割を稼いでいた米国市場を失ったのに加え、バブル崩壊後の経済環境は悪化の一途をたどり、リスクをとって金利を稼ぐ与信姿勢も災いし、膨大な不良債権を生み出した。1998年3月には公的資金による優先株式4,080億円の注入を受けた。

<りそなへの道>
 1999年に始まった都銀各行の金融再編では、不良債権額の多さから合併を忌避され、取り残されていた。個人や中小企業を主要な取引顧客とし、親密な地方銀行をグループ内に取り込む「スーパーリージョナルバンク」への転換を図る構想を持った。2001年2月13日、なみはや銀行を近畿大阪銀行と分割譲渡。2001年12月12日、親密な地方銀行である近畿大阪銀行と奈良銀行と共に、株式移転により大阪市中央区備後町2丁目に金融持株会社大和銀ホールディングスを設立し、各行はその傘下に入った。2002年3月1日、大和銀行が兼営する信託部門のうち、法人向けの年金信託業務を、新設の大和銀信託銀行に分割した。
 2002年3月には、同様に金融再編に取り残されていた、あさひ銀行が株式交換により大和銀ホールディングスの傘下となった。2002年10月1日、あさひ信託銀行と合併。2003年3月3日には、あさひ銀行の埼玉県内の営業拠点と資産を新設の埼玉りそな銀行に譲渡し、残ったあさひ銀行と大和銀行が合併する形で、りそな銀行となった。

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あさひ銀行(消滅)

旧あさひ銀行本店:Author:Rutksdy-jof

<協和埼玉銀行から、あさひ銀行へ>
 1991年4月1日、都銀下位行で中堅企業や個人顧客を主としていた協和銀行と、埼玉県地盤で同程度の預金量であった埼玉銀行が合併し、協和埼玉銀行となった。
 協和埼玉銀行の封筒のフランス人デザイナーが手がけた「水平線から朝日が昇るイラスト」があるが、、このデザインからヒントを得て、翌年の1992年9月21日に「あさひ銀行」へ商号変更した。存続会社は協和銀行で、金融機関コード0006、本店、キャラクターのミッフィーがそのまま継承され、協和主導での合併であった。もともと、勘定系システムの統合で両行は接近したが、埼玉銀行が関わった蛇の目事件による信用失墜のタイミングで合併へ至ったとも言われている。埼玉県内店舗における現金封筒にある「彩の国とともに」というキャッチフレーズは引き継がれた。
 両銀行とも個人預金の比率が高かった関係もあり、リテールに強い地域密着型都銀として独自性を打ち出した。しかし、大企業向けのホールセール主体の都銀上位行や信託銀行とは異なり、資産規模の小さいことや店舗数に対しての収益性を上げる必要があった。
<合併への迷走>
 1990年、土地関連規制をきっかけにバブルが崩壊し始め、1992年にはBIS規制により銀行の自己資本比率が低下し、合併を模索することになった。しかしながら、規模の拡大では1999年2月15日、西武信用組合の事業の譲渡を受けたのみであった。あさひ銀行と東海銀行は、2000年10月を目処に持株会社方式の経営統合で合意。2001年秋には地域別に銀行を再編し、賛同する地方銀行を組み入れてマルチ・リージョナル(地域密着)・バンクを目指す方針であった。しかし、両行の交渉が長引く状況下で、1999年8月に第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行による3行統合、同年10月には住友銀行・さくら銀行の合併が発表され、急速に企業グループの枠を超え、都銀上位行のメガバンクへの再編が進んだ。拓銀破綻後は、こうした金融再編に取り残されていたのは、方針決定を留保した大和銀行と、体育会系な行風が敬遠された三和銀行であった。
 東海あさひ銀行連合は、営業エリアが首都圏・東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大和銀行の参加を呼び掛けた。このため、再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身であった東海あさひ銀行連合に急接近した。東海銀行は、大和銀行ではなく三和銀行を加えた持株会社方式の経営統合を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀系の金融各社で構成されるフィナンシャルワンへ東海・あさひ両行の参入検討を図った。しかしながら、経営の迅速化を名目に持ち株会社方式ではなく、三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したために、経営主導権をリージョナルよりも国際業務を主眼とする三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱。結局、三和銀行と東海銀行の合併という形に決まった。それでも、横浜銀行や千葉銀行といった首都圏の地方銀行との統合を模索した。
 2001年度は不良債権の急激な増加と株式評価損の拡大により巨額の損失処理を迫られることとなり、5月に海外拠点の撤退と東京三菱銀行へ業務を移譲する事を発表。同行との提携から統合交渉へ模索していたとも言われている。2001年8月には中間配当が見送られる憶測が流れ、株価が70円台まで暴落する事態となり何度も経営破綻が噂された。
<大和銀行との統合へ>
 同様に金融再編に出遅れていた大和銀行とは2000年から業務提携していたが、統合案が2001年9月に朝日新聞にスクープされると一気に話が進展した。2002年3月1日、大和銀ホールディングス(2000年末に大和銀行・近畿大阪銀行・奈良銀行の株式移転により設立)との株式交換により同社の完全子会社となった。2003年3月1日、グループ内再編により埼玉県内の営業を埼玉りそな銀行へ分割、自身は大和銀行と合併して、2003年3月3日より、りそな銀行として営業を開始した。

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協和埼玉銀行

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協和銀行(消滅)

旧協和銀行本店:Author:Rutksdy-jof

 戦時体制下の1945年5月15日、貯蓄増強といった国策を遂行するために、不動、安田、日本相互、大阪、摂津、日本、第一相互、東京、内国の9つの大手貯蓄銀行を強制的に合併して日本貯蓄銀行が設立された。戦後のインフレーションが強まり、公社債などに資金運用が限られた貯蓄銀行は軒並み逆ざや状態となり、遂に民間の貯蓄銀行は経営が成り立たなくなってしまった。1948年7月15日、日本貯蓄銀行も普通銀行に転換して協和銀行と改称。市中金融に進出して経営改善を図った。
 その後、全国に点在していた店舗網を再編。地方店舗や都心部の重複店を整理する一方、首都圏の住宅地などに集中して店舗を展開、リテールバンクに特化した経営を続けた。1991年4月1日、埼玉銀行と合併して協和埼玉銀行となった。

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貯蓄銀行

 国民大衆の複利の零細預金や定期積金を通じて資金を調達し、これを公共債に運用したり、住宅資金に貸し付けたりすることを主たる業務とした銀行であった。
 1880年、東京貯蔵銀行が開業第一号となった。1890年、貯蓄銀行条例が公布された。1895年、条例による規制緩和により小規模銀行が乱立し、1916年では貯蓄銀行数は664行と急増した。1922年1月、貯蓄銀行法が施行され、兼営を禁止することで規制を強化したが、行数は減少しなかった。1943年、法律により普通銀行が貯蓄銀行を兼営することが認められ、普通銀行に吸収されたり、自ら普通銀行に転換していった。1949年1月、青森貯蓄銀行が青和銀行(後の、みちのく銀行)に変換したのを最後に、すべての貯蓄銀行が消滅した。1981年、銀行法の改正で貯蓄銀行法も廃止された。郵便貯金も貯蓄銀行の一形態であり世界最大の貯蓄銀行の形態をとっていたが、2007年の郵政民営化による、ゆうちょ銀行の発足により消滅した。

日本貯蓄銀行(消滅)

 1898年8月23日、愛知銀行系の丸八貯蓄銀行が設立。1922年11月10日、伊藤銀行系の伊藤貯蓄銀行及び明治銀行系の明治貯蔵銀行を合併し日本貯蓄銀行となった。1932年に明治銀行が破綻したため愛知銀行との関係が強くなった。1934年5月、村瀬貯蓄銀行を買収した。1941年、愛知銀行と伊藤銀行等が合併し、東海銀行となったため、東海銀行を補完する形となった。名古屋市に本店を置き、中京圏一帯に店舗網があった。
 戦時体制下の1945年5月15日、貯蓄増強国策のため、日本貯蓄銀行、大阪貯蓄銀行、摂津貯蓄銀行、第一相互貯蓄銀行、東京貯蓄銀行、内國貯金銀行、日本相互貯蓄銀行、不動貯金銀行、安田貯蓄銀行を合併させ、新たに日本貯蓄銀行となった。戦後のインフレーションが強まり、公社債などに資金運用が限られた貯蓄銀行は軒並み逆ざや状態となり、経営が成り立たなくなった。1948年5月15日、普通銀行に転換して協和銀行に改称した。
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不動貯金銀行(消滅)

不動貯金銀行本店:Author:PD

 1900年9月10日、牧野元次郎により東京に設立した。当初「不動貯金」(据置貯金。現在の定期預金だが期間が超長期のもの)、「出世貯金」(抽選で利子を先払いする貯金)を考案したが失敗した。その反省から「三年貯金」(後の「ニコニコ貯金」。現在の定期積金)を開始した。外務員が預金者を勧誘し、また定期的に訪問して集金するスタイルが受け、業績が拡大。大黒信仰を基にした「ニコニコ主義」をモットーに日々の貯蓄の重要性を外務員を通じて預金者に説き、合併直前には全国規模で最大手の貯蓄銀行となった。
 戦時体制下の1945年5月15日、貯蓄増強国策のため、日本貯蓄銀行、大阪貯蓄銀行、摂津貯蓄銀行、第一相互貯蓄銀行、東京貯蓄銀行、内國貯金銀行、日本相互貯蓄銀行、不動貯金銀行、安田貯蓄銀行を合併させ、新たに日本貯蓄銀行となった。
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安田貯蓄銀行(消滅)

旧安田貯蓄銀行本店:PD

 戦前のわが国では、貯蓄銀行は大衆の少額の貯金を扱う銀行として、普通銀行と別個に存在した。しかし、両者に歴然とした区別があったわけではなく、普通銀行のなかには少口預金吸収のために貯蓄銀行を子銀行として設立したり、1922年に貯蓄銀行法ができるまでは、貯蓄銀行を兼ねるところも多かった。このような状況下で、三井、三菱、住友の総合財閥系は傘下に貯蓄銀行を持たなかった。
 1920年1月10日、安田系列銀行のひとつである明治商業銀行の子銀行である金城貯蓄銀行を安田貯蓄銀行に改称、本店を明治商業銀行本店内から安田銀行本店内に移し、安田銀行のオーバーローン資金を補う目的で貯蓄銀行業務に注力する体制が整った。同年12月23日、小石川貯蓄銀行及び横浜中央銀行を合併。1921年6月18日、神奈川貯蓄銀行を合併。1922年12月1日、浅野昼夜貯蓄銀行を合併。1924年12月1日、福岡貯蓄銀行を合併し、業界第2位の大阪貯蓄銀行と肩を並べた。
 1935年頃から始まる超低金利と統制強化に伴う課税強化の結果、貯蓄銀行は普通銀行に比べ著しく不利な状況に置かれた。準戦時、戦時統制下には国債の引受機関化した。1943年普通銀行の貯蓄銀行兼務が再び認められ、貯蓄銀行の存在理由は消滅した。1945年5月15日、大蔵省主導で、大阪貯蓄銀行、摂津貯蓄銀行、第一相互貯蓄銀行、東京貯蓄銀行、内國貯金銀行、日本相互貯蓄銀行、日本貯蓄銀行、不動貯金銀行と合併して日本貯蓄銀行を新立した。1948年7月15年、協和銀行に改称した。
※安田貯蓄銀行と安田財閥 浅井良夫 成城大学経済研究1982 77(3) 325-395

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大阪貯蓄銀行(消滅)

 1890年12月27日、大阪に設立。同年12月30日、開業。1906年1月23日、川東貯金銀行を買収。1930年3月、御影貯金銀行を買収。山口財閥系の貯蓄銀行であった。
 1945年5月15日、戦時体制の下、貯蓄増強といった国策を遂行するために並立する大手貯蓄銀行である摂津貯蓄銀行、第一相互貯蓄銀行、東京貯蓄銀行、内國貯金銀行、日本相互貯蓄銀行、日本貯蓄銀行、不動貯金銀行、安田貯蓄銀行とともに強制的に9行を合併させ、日本貯蓄銀行を新立。戦後高まったインフレーションが強まり、公社債などに資金運用が限られた貯蓄銀行は軒並み逆ざや状態となり、経営が成り立たなくなった。このため、日本貯蓄銀行も1948年7月15日、普通銀行に転換して協和銀行に改称した。
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内國貯金銀行(消滅)

内國貯金銀行本店:PD

 1912年9月20日、三井銀行出身の前山久吉により東京に設立。小口の預金を取りまとめ株式市場等で運用して好成績を上げる国内有数の機関投資家であった。1927年2月1日、遠江合同貯蓄銀行を買収合併。1929年6月、尾北貯蓄銀行を買収した。
 1945年5月15日、大阪貯蓄銀行、摂津貯蓄銀行、第一相互貯蓄銀行、東京貯蓄銀行、日本相互貯蓄銀行、日本貯蓄銀行、不動貯金銀行、安田貯蓄銀行と合併し、日本貯蓄銀行が開業した。
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奈良銀行(消滅)

 1953年3月15日、奈良県唯一の相互銀行として三栄相互銀行が設立。同月26日に開業した。
 1989年4月1日、金融機関の合併及び転換に関する法律に基づき普通銀行に転換し、奈良銀行と商号を変更した。
 2001年12月12日、大和銀行及び近畿大阪銀行と共に、株式移転により大和銀ホールディングスを設立し、その完全子会社となった。2002年10月、大和銀ホールディングスは、りそなホールディングスに商号を変更。2006年1月1日、りそな銀行による吸収合併により、解散した。
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